2022.06.30 谷川岳一の倉沢烏帽子岩南稜と滝沢スラブ追憶

2020.06.30 谷川岳一ノ倉沢 南稜登攀と滝沢スラブ追憶

5:05登山指導センター 6:00一ノ倉沢出合

8:08南稜テラス 8;25登攀開始 10:35登攀終了

14:30一ノ倉沢出合

南稜フランケなどを入れると10回以上の南稜の登攀だったがコロナ渦などもあり久しぶりの登攀だった。登攀自体は何の心配もないのだがある年齢を過ぎての一ノ倉は何かとプレッシャーを感じる。前夜の車中泊、十分睡眠がとれるかなど結構大きな問題となる。案の定あまり睡眠はとれなかったが予定通りにベースプラザを発つ。平日なのでのんびり体力を温存しながらのアプローチだった。しかしテールリッジを登り始めると強烈な日差しを浴び始める。おまけに湿度も高い。今年は例年にない6月中の梅雨明けだったが以来猛暑が全国的に続いている。やっとの思いで中央綾の基部に達すると中央綾に2組のパーティが取り付いている。日陰を探し中央カンテの取り付きで大休止する。この時点で国境稜線へ抜けるのは諦めた。南稜テラスに達すると幸運にもガスが下りてきた。本来なら敬遠するところだが熱中症寸前の体には心地良い冷気だった。何時もは混み合う南稜も今回は我々が独り占めで、ノンビリ登攀を楽しむことが出来た。

終了点から見下すと滝沢方面が一望できた。1969年6月26日 川原和也君と登った滝沢下部ダイレクト~第三スラブ~ドーム壁のルートが一望できる。翌年フランスアルプスグレポンで不注意から川原君は亡くなった。天真爛漫で楽天的な川原君だったが詳細な記録を残していた。本来我々は烏帽子岩の凹状岩壁を登りに行ったのだが大雨の翌日で凹状は水が流れていた。朝日に輝く滝沢方面は光輝いていたように思えた。南稜を登る仲間からハーケンを10本ほど調達,15本のハーケンを持って滝沢へ転進した。記録によると7:05に下部ダイレクトに取り付き16:00にドームの頭へ抜けている。当時は40mロープだったが26ロープピッチを9時間で登っていた。スラブの核心部は水が流れていて丹沢の沢登りのようだと思った。ドーム壁取り付きまでの傾斜の強い草付きは濡れて最悪だった。確保支点もほとんど無く15本のハーケンは殆んど打ち尽くした。飲まず食わずの登攀だったので肩の小屋へ寄った。『何処から来たの?』と夕食準備の小屋番の人。『三スラ登ってきました。』と答えると居合わせた人も含め暫しの沈黙。何か居た堪れないような雰囲気となり二人で顔を見合わせて急いで小屋を出て西黒尾根を下った。

川原君が亡くなってから30年間ハイキングも含め登山から遠ざかっていた自分だが、50歳を過ぎて山へ復帰した。岩登りではなくフリークライミングの時代へ移っていた。そのギャップに戸惑いながら、さまざまな人達の教えを請いながら後半の登山人生も17年になってしまった。特にいろいろな経験をさせてもらった谷川岳に感謝の念をかみしめながら一ノ倉の林道を下山した。

追記:グレポンで川原君と一緒行動していた堀田一平君が昨年10月に亡くなりました。併せてご冥福を祈ります。

一の倉沢出合い

南稜取り付き。

1p目終了点へ。

2p目のスラブ。

2p目終了点へ。

5p目。馬の背リッジの終盤。

最後の垂壁前のテラスへ。

最終ピッチ。

南稜終了点へ。

南稜終了点からの第三スラブ、ドーム

川原和也君追悼号

下部ダイレクト、三スラ、ドームの記録。当時の姓は原でした。

川原君は詳細なTOPOも残していました。

 

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